Title 「共に過ごすこの時間を」  
Name 天凪
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 『共に過ごせるこの時間を』

                             
                      天凪
              

 最初に気付いたのがシャマルであったのは必然だった。
 守護騎士の中でも最も共に時間を過ごし、人懐っこく世話好きな役柄からそれとなく皆を見やる『風の癒し手』。
 ましてや誰よりも愛しい主ともなれば、尚のこと。

「………」

 もう随分と使い慣れたシステムキッチンの前に立ち、シャマルは視線を横へと向けた。
 出逢って以来、三年近くにもなる夜天の王――八神はやて。
 記憶する限りでは最も長く、そして最後に仕える事になるであろうシャマルの主は、煮魚を前にして小さな吐息を散らした。
 家事全般――特に料理好きな普段のはやてなら楽しげに、踊るように笑顔を振りまいているのに。
 そんな姿が、しかし今はない。
 グツグツと醤油ベースの出し汁が煮立つ音だけが耳元を過ぎる。
 ほんのつい数分前まで、いつもと変わらず会話を弾ませていたというのに。
 急に、何かを思い出したかのように降りた沈黙。

 数日前から、予兆はあったのだが―――。

 今日ははっきりとわかるほど、はやての様子は普段と違った。
 心ここに在らずといった面持ちで、煮立ち始めた鍋の蓋へと視線を落として―――。
  
「!? はやてちゃん、お鍋!?」
「……へ? わっ、わわ――熱ッ!」 
「大丈夫ですかはやてちゃん!?」
「だ、大丈夫。大丈夫や」
「ダメです! ちゃんと指を見せて下さい」

 噴き出した鍋の火を止めて、シャマルは口を尖らせながら言った。
 鍋を噴かすのも、慌てて鍋のふたを掴んだことも、これも普段のはやてならあり得ない。
 差し出された小さな指は、ほんの少し赤く腫れていた。
 手を翳し、シャマルは詠唱不要の簡易型治癒魔法を素早く立ち上げた。この程度の治癒に魔方陣もクラールヴィントの補助も必要ない。
 淡いエメラルドグリーンの光で指先を包むと、はやてはくすぐったそうに首をすくめた。

「――はい。気を付けて下さいね、はやてちゃん」
「うん。ごめんな、シャマル」
  
 言いながら、けれどもはやてはうつむいた顔を持ち上げはしなかった。
 ジッと、シャマルの胸の辺りに視線を向けたままで。

「……ハァ」

 吐き出されたため息に、シャマルは小さな困惑を浮かべた。



   ※   ※   ※   ※   ※   ※



「主はやての様子がおかしい?」

 夕食後、いつもより多目のお茶を口に運びながら、シグナムは静かに顔を上げた。
 切れ長の瞳を僅かに細くし、何かを思い出すように黙考。
 シグナムは整った眉を微かにしかめた。

「……確かに、そうかもしれんな」
 
 嘆息にも似た呟きに、湯呑みから立ち上る湯気がわずかに揺れる。  
 
「そっか? あたしは全然、気が付かなかったけど?」

 と、こちらは食後のプリンを口の中へと移動させながら、ヴィータは小首をかしげる。 
 
「絶対にそうよ。ここ二、三日前から、はやてちゃんの様子がおかしいんだもん」
「う〜ん。そう言われてもここ最近、ずっと局の教導隊の方に呼び出されていたから、
 あんまりはやてと一緒じゃなかったからなぁ〜」

 スプーンを口に咥えたまま、ヴィータは不満げに唇を尖らせた。
 入局当初はそうでもなかったものの、二年もすれば次第に環境も変化する。
 はやてと守護騎士はそれぞれの得意分野・適正部署への転出・出向を繰り返し、今では同じ任務につくことすら稀で。
 同じ家には住んではいても、過ごす時間は確実に減っている。
 いつも、いつでも、いつまでも。
 そう想い続けてきた日々も、現在の状況の中では全てが上手く行くはずもなく。
 不満――といえば大袈裟になるが、少なくとも納得しているわけでもない。

《シャマルの意見には、我も同意だ》

 ふと考え込んでしまったシャマルの思考の表層に、ザフィーラの声が重く響いた。
 組織の中での不自由があるなら、組織という枠組みから敢えて離れたのがザフィーラだろう。
 管理局に属さない以上、なんらの権限も与えられていないザフィーラだが、それ故に行動の制約が少ない場合も多い。
 無論、その逆もある。
 だが、常に主の元に在り続けようしているザフィーラも同じ意見というのであれば、シャマルの疑念は裏づけされたようなものだ。

 ましてや―――。

「はやてちゃんがお料理で失敗するだなんて、普段なら絶対にあり得ないことなんだもん」

 黒く、明らかに煮込みすぎた魚の煮物を見やり、シャマルは嘆息した。
 
「……え、嘘!? このデタラメな味付けの魚って、シャマルが作ったんじゃなかったのか?」
「あのね? ヴィータちゃん? それってどういう意味か教えてくれるかしら?」
「いや、そのまんまの意味――って、イテテテッ。なんでいきなりつねるんだよ、シャマル!」
「ふん、だ」
「ヴィータ。言いたいことは判るが、それはシャマルに対して失礼だ」

 そこへ見かねたように、シグナム。

「シャマルの食事は、少なくとも見た目はまともだ」
「シグナムまで!? 二人ともひどい! これでも随分と失敗は減ってきてるのよ!」
《だが、ゼロではないな》
「ザフィ〜ラ〜〜〜〜!」
《我の皿に乗っている酢の物は、明らかにお前の失敗作であろう》

 シャマルは心の中で舌打ちした。
 こっそり廃物処理をしたつもりだったのだが、しっかりと見られていたらしい。

「でもでも、わたしだって日々成長しているんだから!」
「だったらあたしだって、意外と成長しているんだぜ?」
「ヴィータちゃんが?」

 シャマルは意外な顔をした。
 まさかアイスクリームが一日に3個から4個になったとか言い出すつもりなら、心置きなくリンカーコアを抜き取ろう。
 そんなことを考えたシャマルを、ヴィータは一瞥してニヤリ。

「いや、だから胸が。なんか最近、大きくなってきたみたいでさ」

「「嘘っ!?」」

 瞬間、声が重なった。
 シャマルとシグナムではなく、もう一人。
 
「はやてちゃん……?」

 それまでリビングには居なかったはずのはやてが、目を丸くしてヴィータを見やっていた。

「それ、ホンマなんかヴィータ!?」
「や、えっと……ごめんなさい。ただの冗談です」

「「ホッ」」

 と、またしても同時。
 安堵のため息が重なり、シャマルとはやては目線を合わす。

「あの、はやてちゃん……?」
「えっ、あっ……な、なんでもないよ!?」

 なんでもないと言いながら、逃げるように二階の自室へと駆けるはやて。
 怪しい、などというものではなく。

「………」
「………」
「………」
《………》

 あからさまに、不審。

「――それで、我らはどうするべきなのか、だな」

 シグナムが言うと、自然に視線はそこへと集まった。
 これからを、どうするのかと。
 もちろん主はやてを、だ。
 はやての様子がおかしいのは、もはや守護騎士全員の共通する認識だとしても、ならばその理由を探るべきなのか? 
 心の中に踏み込み、どうにかしてでも解決するべきなのだろうか?
 難しいことは判っている。判っているからこそ、シグナムも渋面を浮かべているのだろう。
 悩みがあって、それを解決するために相談を持ち掛けられたのなら、どんな難問であろうと自分たちは最善を尽くす。
 だが、明かされない悩みを――もしかしたら隠そうとしているのかもしれないソレを、暴くような行為が果たして正しいと言えるのだろうか。

 主に仕える騎士として――何よりも家族として。

 考えてみれば、こんな悩みはシャマルの記憶する限りでは初めてだった。 
 誰かと家族になる。
 そんな体験すら初めてなのだから、当然と言えば当然のことなのだが。
 
「だめね、わたしたち……」
「……ああ、そうだな」    

 思わず唇をついて出た言葉に、同じ思いだったのだろうシグナムも追随するように頷いた。
 
「はやて、何を悩んでいるのかな……」  
《それすら判らぬ我らには、出来ることは限りなく少ない》
「だが、だからといって主の悩みを詮索するのも気が引ける。……上手くは言えないが、な」

 その通りだ。
 悩みを話してくれないのは寂しいことだが、人には誰しも言えない秘密の一つや二つは抱えている。
 人の心は見えなくて、判りづらくて――だからこそ知りたくて、深く関わるようになって、お互いを理解しあうようになる。
 判らないから、判りたくてぶつかってゆく少女を、シャマルは知っている。
 その方法が適切であるかは別として、逃げずに向き合おうとする心はとても眩いものであることも知っている。
 或いは、嫌われてしまうかもしれないけれど。
 でも―――。

「それはわたしの役目、よね」

 シャマルはリビングのソファーから立ち上がった。

「シャマル……?」
「だって、やっぱり心配なんだもん。はやてちゃんの秘密を探って、もし叱られるとしたら、それはやっぱりわたしの役目」
「だが、しかしそれでは―――」
「もしわたしが叱られて、はやてちゃんを怒らせちゃった時は、ちゃんとフォローしてよね。
 それがシグナムと、ヴィータちゃんの役割なんだから」
《……では、我は何をすればいいのだ?》
「ザフィーラは何もしないこと。何もしないくていいの。一歩、後ろに退いていることで、
 わたしたちには話せないことをザフィーラになら話してくれるかもしれないんだから」
《そういうものなのか?》
「そういうものよ♪」

 言って、腰のエプロンを脱いで二階に向かう。
 正直にいえば不安はある。
 だけども、それも含めて自分の役割。

「………」
「………」
《………》

「……って、みんなが着いてきちゃダメじゃない!?」

 の、ハズなのに、振り返ると全員がゾロゾロと。
 まるでRPGのパーティーのごとく。 
 
「そんなことを言われたって、あたしらだって気になるんだよ」
《なにもシャマル1人が背負う必要もなかろう》
「そういうことだ。主の不興を賜るのなら、我ら全員。今までずっと、そうしてきたはずだ」
「……もう。どうなっても知らないんだから」

 呆れと、苦笑とが、胸にストンと落ちる感覚。
 心が少し軽くなる。
 本当にどうなっても知らないけれど、何が起こっても大丈夫だろうと。
 実際にはそんなに単純なことではないのかもしれないが、それでも平気と信じられる。

「……よし」

 拳を軽く結び、深呼吸をひとつ。

「はやてちゃん? ちょっといいですか?」


  ドタバタバタガタドタガシバタ――――バスン!


 返事の代わりにすごい音がした。
 物凄く慌てて、何かを隠したような、そんな音が。

「あ、あの、はやてちゃん……?」

 タラリと、頬に乾いた汗を伝わせながら、シャマル。

「なななななんやしゃまるぅ!?」

 返ってきた声は、見事なくらいにひっくり返っていた。

「いえ、あの……。お茶が入ったから、どうかなって思って……」
「そ、そうか。ありがとうシャマル。後で貰いに行くからっ」

 ………。

 結局、はやては部屋から出てこなかった。

(な、なんだったんだシャマル!? はやての今の反応は!?)
(そんなのわたしに訊かれても判らないわよ)
(でも、なんかすっげー物音がしたぞ!? 放っておいて大丈夫なのか!?)
(だからわたしに訊かれても判らな――あら? どうかしたのシグナム?)

 振り返るとシグナムが思案気に腕を組んでいた。

「いや、これ似た光景を以前、テスタロッサから聞いたような気がしてな」
「? フェイトちゃんから?」
「ああ。自宅でクロノ執務管を呼びに行った時、部屋の中の執務管が酷く慌てたように大きな物音をたてたそうだ」
「まぁ」

 あのどんな時でも、暴走した闇の書の防御プログラムを前にしてすら冷静沈着だったクロノが慌てた様子だというのだから、よほどの事があったのだろう。 

「気になったテスタロッサが後でエイミィに訊いたところ、『それはクロノくんが大事な本をベッドの下に隠したんだよ』と言われたのだと。
 意味は、よく判らなかったらしいがな。正直なところわたしも良くは判らないのだが……」
「ちょ、シグナムそれって―――!?」

 ひょっとして――いや、間違いないだろう。
 そして確かに似ている。何より、それなら今のはやての慌てっぷりも頷ける。
 家族にも話せない隠しごと。
 当然だ。
 その手の本を公然と家族に見せられる勇者は、数多ある次元世界においても稀であろうから。

 しかし、そうなると、この場合―――。

「確かめてみる必要が、ありそうね」

 ゴクリと喉を鳴らし、シャマルは硬い声色で言った。 
 いや、これは決して興味本位ではない。
 主はやてがどんなエ――もとい『教材本』を参考にしているのか、家族として、そして八神家の主治医として、シャマルには知る義務があるというだけのこと。
 
「ふふふ、ふふふふふ……」
「シャ、シャマル。お前、なんか目がこぇーぞ?」
《いいのか、シグナム。シャマルを止めなくても》
「む……。だが、どうすればいいのか正直、わからん」
「と、そんなワケだから。クラールヴィント、お願い♪」

《《――Anfang》》
 
 心なしか酷くイヤイヤな気配を漂わせながら、指環から剥離した水晶体が輪を描く。
 シャマルが得意とする転送系魔法の応用――《旅の鏡》。
 これを使えば例えベッドの下に魔力と物理の複合四層式のバリアーが張り巡らされていようとも、標的の確保は容易だろう。
 或いは、壁サークルの行列突破すらさえもだ。
 
「我ながら時々、自分で自分が怖くなるわ……」

 自らの能力に慄きつつ、ベッドの下へと通じる異空のトンネルへズブズブと腕を突き入れる。
 独特の感触を抜けた、先に、ベッドとマットに挟み込まれる圧迫感。
 その中を這うように、前へ、前へ。

 ―――コツン。

 異物の感触。
 明らかに本の感触――なのだが。

「………?」

 本。
 確かに本の――紙の感触。
 指先から得られる感触が、それをシャマルに告げている。
 だが――だが―――。
 この表紙は、なんだ?
 装丁が、妙だ。A4サイズでおよそ30ページ前後。妙に薄い。
 普通、書店でこのサイズの本と言えばペーパーブックくらいだが、それはベッドの下に隠すようなものだろうか?
 ならば、これは――まさか!?

(――同人誌!?)

 冷たい汗がシャマルの背筋を伝った。
 そうだ。これは同人誌。この装丁・PP加工は同人誌ならではのものではないのか?
 サークルははどこだろうか? いや、そもそもジャンルは? カップリングは?
 無数の本とその内容が、思考の中を目まぐるしく駆け巡った。
 この世界には無数の、それこそ夜天の魔導書ですら蒐集不可能なくらいの数の本が存在するのだ。
 他愛のない微笑ましい描写から、激しい描写まで。
 ありとあらゆるジャンルの中で、例えば なのフェイくらいならまだいい。クロフェイもギリギリで認めよう。

 だけど、だけど―――。

 ソレがもし、裸のユーノとクロノが抱き合うような同人誌だったとしたら!?
 挙句に!
 ザフィーラとグレアム提督が絡むようなものだった時には……っ!!!

「だ、だめよはやてちゃん! あなたにその同人誌はまだ早すぎるわっ!」

 ――とか言いながらも《旅の鏡》から引き抜いた手には、しっかりと一冊の本の姿が。
 
 瞬間、

「って、こら! シャマル―――っ!」

 顔を真っ赤にしたはやてが部屋の中から飛び出てきた。
 
「はやて――ちゃん?」

 シャマルはキョトンと目を丸くした。
 ブラウスのボタンが外れていた。
 それはいい。いや、本当はよくないけれど、今はいい。
 だけど、肌蹴たブラウスのその内側。
 零れおちるような――と、言うよりむしろズリ落ちているのは、白く可憐なレース模様で覆われた、明らかにサイズの違う―――。

「ブラ……?」
「あ、あう……」

 観念したように、はやてはガクリと栗色の頭を垂らした。



   ※   ※   ※   ※   ※   ※



「胸が……大きくならない?」

 シグナムと顔を見合せると、はやては小さな身体を益々小さく縮めた。

「この前、学校でな。体育の授業で着替えた時、なのはちゃんがブラしてたんよ」
「なのはちゃんが?」

 シャマルはキョトンと小首を傾げた。

「うん……。まぁ、すずかちゃんやフェイトちゃん。それにアリサちゃんが前から付けてたんは知ってたんやけど」

 それぞれが、それぞれに。魅力的な美少女であることはもちろん、発育の方も平均を遙かに上回っている。
 発育の良い異国の血を引くアリサやフェイトはともかくとして、何故か月村すずかも胸の同年代と比べれば、巨乳。
 唯一、はやてと同じくらいのサイズがなのはだったことは、医局勤務のシャマルもそれとなく知っていたのだが。

「なんやなのはちゃん、6年生になってから急に大きくなってきたって……。まぁ、桃子さんを見てたら、いつそうなってもおかしくはなかったんやけど……」

 言われれば、確かに。
 なのはの母親である桃子の胸は、平均的な日本人を遙かに上回っている。

「で、それが羨ましくてはやてちゃんもブラを?」
「だって……ほんまに羨ましかったやもん」

 ぷいっ、とはやては顔を横に向けた。
 それで勢いのままにブラを買ってはみたものの、はやてにとってはまだ不必要。
 どうしたものかと、どうすれば周りに追い付けるのかと、そんなことをずっと考えていたのだと。

「ま、まぁ、そんなに焦らなくても。世の中には『育ちざかりですから!』って言葉もあるくらいですし」
「むぅー。そやけどわたしだけ取り残されてて、今年か来年辺り、水着を着たら敗北感で立ち直られへんかもと思うと、憂鬱やんか。
 シグナムの胸、半分くらいわたしに譲ってくれへんか?」
「あ、主はやて? これは、その、見た目ほどいいものでは、決して……。肩はこりますし、それに時々、邪魔になるといいますか―――」  
「邪魔になるくらいの胸が、わたしにだって欲しいやもん」

 あー、こういう場合はどう対処すればいいのだろう?
 烈火の将はあたふたを顔を困らせるばかりで、紅の鉄騎はそもそも話についてこれず、蒼き狼に至ってはねぐらに戻ってしまった。
 ハァー、とため息。
 こういう場合、結局、なんとかするのは自分だけ。

(でも―――)
 
 シャマルは苦笑を浮かべた。
 こんな事で悩み、拗ねて、自分にはまだ早いブラを買ってしまったはやての行いが、どこか微笑ましい。
 そして、ふと気付く。
 共に過ごす日々の中でも、少しずつ少しずつ、成長してゆく主の身体に。   

「大丈夫ですよ」

 はやての背中を抱きしめて、シャマルは言った。
 小さな背中。
 細い肩。
 まだまだ子供。
 だからこそ、これかまだまだ大きく育つ。
 今日より明日。
 今年よりも来年。
 時間を重ね、ゆっくりと。止まることなく大人へと成長してゆくのだから、急ぐ必要なんてどこにもない。
 それに、今だけなのだ。
 この感触のはやてを抱きしめられるのは、今日という一日だけ。
 今日のはやてを愛しめるのは、生涯の中で一度きり。
 守護騎士プログラムである自分たちの身体は何年経とうと変わりはしないが、はやての身体は一日一日変化してゆく。
 それが嬉しくもあり、寂しくもあり、シャマルはギュッとはやてを抱きしめる。
 今、この瞬間を胸の中に止めておくかのように。 

「そんなに急には大きくはならなくても、はやての身体だってちゃんと育っているんですから」     
「……ほんまにか?」
「はい」

 三年前と比べて、ずっと。
 育ってくれる愛しさも、見守らせてくれる喜びすらも、初めて教えてくれた人だから。
 ちゃんと、知っている。 
 出逢った頃のはやてよりも、もっと魅力的な女の子に育っていることくらい。

「はやてちゃんは、ちゃんと女の子として育っています。だから焦る必要なんてないんですよ」
「……うん」

 心も、身体も。
 伸びた手足の長さに相応しい、魅力的な大人へと育つ日々を思い描きながら。
 シャマルは鼻に掛かった栗色の、柔らかで優しい髪の香りを胸いっぱいに吸い込んで―――。

「そういうワケですから、この本は没収です!」

 最後にコツンと、シャマルは取り上げた本ではやての頭を軽く叩いた。

「うぅ……。もうちょっとでコツが掴めそうやったのに……」
「いえ、主はやて。そういうことは他人の胸にも自分の胸にも、あまり試して欲しくないのですが……」

 本の表紙をチラリとみやり、シグナムが疲れたように嘆息した。
 本当に、心底。
 なんでこの世界には、こんな本まで普通に本屋で売られているのだろう。

『巨乳になれる胸の揉み方50+1』―――。

 没収した本のタイトルは、中身も含めて危険過ぎると判断したわけなのだが。
 時すでに遅し。
 はやてのセクハラ癖が治ることはなく、しかもセクハラを受けた女性の七割が豊乳効果を認めたとか認めなかったとか―――。




                                       (おわり)
  
   

 



 『月の光 夜天の調べ』

                  天凪




 煌めく光で街が溢れていた。
 ざわめく街頭に散りばめられた小さな小さな星の粒。
 肌寒い冬の夕暮れ。
 けれども街は活気に溢れ、冬の静謐を押し退けるように街路樹は華やかな電飾を纏い、ショーウィンドウはこの冬最後のイベントを控えて色とりどりに飾られていた。
 この活気が街に溢れ出したのはいつからだろうか?
 先月の末か、それとも今月に入ってか。鈴の音に乗せた軽快なメロディーは真冬の夜へと凛と響き、メインストリートをより鮮やかに彩らせる。
 赤く――そして白く。
 光が、弾ける。
 人々の流れを導くように、絡み合う。
 囁くように瞬く夜天の星たちよりも、ずっと。
 この年の最後をもっとも美しく飾ろうと、静かな熱気を凝縮させた光。
 手を伸ばせば確かに届く距離にありながら、けれども誰の瞳からも流れ去る地上の光りは、孤独―――。

「はぁ〜」

 吐き出す白い息が温かく思えて、合わせたミトンの指先にそっと吹きかける。
 陽が落ちるのが早くなり、今年の終わりも直ぐにそこ。
 冬で満ちた街の空気は肌に随分と冷たい。
 吹き付ける夜風を浴びてはやては首をすくませた。
 全身をくるむ大きめのショールは防寒具として充分に温かいが、重ね合わせた生地の隙間から入り込んでくる風を完全には防ぎ切れない。
 まして車椅子の足元からは、意外なほどに隙間風が入り込んでくる。

「――くしゅん!」
「大丈夫ですか、はやてちゃん?」

 気遣わしげに訊ねる声に振り返る。
 首筋に巻いたマフラーの上にクリーム色の柔らかな髪を揺らして、シャマルが細い眉を不安げに寄せていた。

「うん。大丈夫や、シャマル」
「だったらいいんですけど。寒い日が続いてますから、はやてちゃんの身体が心配です」
「シャマルは相変わらず心配性やなぁ」
「だって、心配なものは心配なんです」

 シャマルは口調にほんの少し熱をこめ、レジ袋を両手に持ち上げた。
 白身魚と豆腐と沢山の野菜。はみ出したネギ。それが街を覆う空気とは関係のない、八神家の日常だった。
 ストリートは間近に迫った冬のイベントを目前に控え、雑多な熱気と笑顔で溢れている。華やかに飾られたポスターやチラシを配るアルバイトも、皆が必死だ。
 けれどもはやてとシャマルはスーパーを出た脇にある、店と店とのほんの少し空いた隙間で街が奏でるメロディーを耳にしながら、いつもと変わらぬ日常を続けていた。
 まぁ、冬物セールくらいは利用するけれど、普段と何も変わらない日々の流れを崩すことなく続けている。

「日常……か」

 呟いた言葉は白い吐息となって夜に散った。
 考えてみればこの日常は当たり前のものではなかった。
 一年と、約半年―――。
 それがはやてにとって、今日へと続く時間の全て。

「? はやてちゃん。何か言いましたか?」

 シャマルが首を傾げる。
 湖の騎士――風の護り手。
 かつて『闇の書』と呼ばれた魔導書のプログラムの一部だった彼女は、一昨年の冬には居なかった。

「懐かしいなぁ――って、な」

 暗い空に目を細めながら、はやては言った。

「懐かしい、ですか?」
「うん。なんか懐かしいなぁ、ってそう思ったんよ。シャマルは覚えてるか? 
 去年、こうやって二人で買い物をして、すずかちゃんと一緒にお鍋を食べる約束をして、でもみんなが帰って来なくて―――」
「あ、あれは、そのっ、え、え〜〜〜と」

 途端にシャマル表情に狼狽が浮かんだ。

「ええんよ。責めてるわけやなくて、ただふとあの時のことを思い出しただけなんやから」

 あの頃、後に『闇の書事件』と呼ばれる管理局との戦いが激しさを増していた最中、長引く戦いに夕食の時間に彼女たちが帰ってこられなかった事が一度だけあった。
 真相を知ったのは随分と後になっての事だったけれど。

「もう、アレから一年になるんやなぁー」

 思えば遥か遠い昔の出来事のように思えた。
 冬の朝に融けた紅い瞳の少女の笑顔も。
 この胸の中に託された想いと魔導の力も。
 ――必死の結果だった。
 この事件に関わった、皆が、それぞれに。
 誰もが信じるものと護りたいものを必死に抱えてぶつかり合って、その結果としての現在なのだと頭では理解している。
 けれども感情だけはそうでもなく―――。

「リインフォース……」

 凍て付く大気の中で、その名前を口にする。
 意識してではない。
 ただ、どうしようもない想いが出口を求め、身体の中から滑り出てしまっただけのこと。
 それでも呟いた名前が冬の雑踏に掻き消される事はなく、シャマルの眼差しを振り向かせるには充分だった。

「はやてちゃん……」

 言葉に色があるのなら、この時のシャマルの声はきっと悲しみの銀色。手のひらからこぼれたしまったあの少女の美しい髪と、同じ色の響き。
 はやては頭(かぶり)を振った。
 弱く吹き付ける北からの風に栗色の髪を短く揺らす。

「帰ろうシャマル。早く帰らないと、きっとみんながお腹を空かしてる」
「はい」

 ほんの一瞬、シャマルの声には間があった。
 だけども、それだけ。
 努めて明るく弾ませた声に、一際大きく流れ始めたソプラノボイスが淡く夜気と溶け合った。


   長い間悩んだ 寂しさと 人の心
   短い詩を君に送るよ 胸に書いた言葉を


「この曲は……?」

 この時期に流れる歌としては、明らかに異質の歌詞だった。
 美しく澄んだ、けれども強く胸に響く女性の歌声。

「これって確かはやてちゃんの好きな歌手の――あ、そういえば海鳴のホールで大きなコンサートがあるんですよね」

 言われてはやては思い出した。今年、海鳴ホールで開催される世界的な歌姫のコンサート。
 街のいたる場所にポスターが貼ってあるし、学校でもなのはやアリサが盛んにその話題で盛り上がっていたし、はやて自身もCDを持っている。
 案外、街中が例年以上に熱気に包まれているのは彼女のコンサートの影響なのかもしれない。

「綺麗な歌声ですね」
「うん。ホンマや」

 はやては頷き、流れる歌にそっと耳を傾けた。


   もう一度戻れるなら
   抱きしめて 笑ってあげたい


 何気ないフレーズに細い肩が不意に震えた。
 もしもあの時に戻れるのなら、自分はどうするのだろう。どうしたいのだろう。
 救う事も引き止める事もできず、ただ無力のまま見送るしかなかった自分は―――。

「どうかしましたか?」
「なんでもないよ」

 応えた言葉に白い息が夜に散る。
 消え行く白を目で追えば、果てなく広がる冬の空。


 月は高く、淡く儚く。
 ガラス張りの光景にも似た、深く冴えた蒼い夜―――。





 はやては最初から夜が好きだったわけではなかった。
 まだ本当に幼かった頃、今日と同じような澄んだ冬の夜空を見上げ、底知れぬ恐怖に怯えた記憶が微かに残っている。
 肌を切るような夜気の冷たさ。
 静まり返った乾いた空気。
 凍て付くような蒼い夜に、部屋の中でいつも独りだった。
 けれども今は違う。
 夜に包まれる恐怖はもはやない。
 在るのは大切な家族と、夜に対する誇らしげな自負。

「行くでスレイプニール!」

 掛け声と共に風を切り、はやては全力で夜を翔けた。
 雲を破れば天を覆う無数の星。
 照らす月に浮かんだ翼は背中から伸びる漆黒の六翅。
 未だ歩く事すら叶わない少女の身体を魔導の翅はあり得ぬ速度で夜天を翔けさせ、不可視の樽の淵を沿うように横向きの螺旋をクルクルと描く。
 と、次の瞬間、横向きの機動は縦向きの機動へ。
 はやてはシュベルトクロイツを横に振って身体を捻り、背中を外に投げ出すような鋭角なターンを描いた。

「っ……」

 慣性を無視した乱暴な機動に大気は分厚い壁となり、細い身体を容赦なく揺さぶった。
 地上に比べれば薄いはずの空気が剣十字の杖を握る腕に牙を剥いて噛みつき、耐圧効果に優れた騎士甲冑の上で不気味な音を軋ませる。
 意識が跳びそうになる最中、はやては背中の六翅――スレイプニールを巧みに操る。
 それぞれが魔導による高次元での偏向推力を可能とし、単一のベクトルに重ね合わせればなのはやフェイトの加速力にも決して引けを取らない。
 それは旋回のようなスピン――もしくはスピンのような旋回ともいうべきか。
 ともあれトップスピードから最小限の損失速度でバレルロールとインメルマン・ターンを組み上げてはみたのだが、結果は思わしいものではなかった。

「あかん。いくら速く回れても、最後にフラついたらなのはちゃんのシューターのええ的や」

 はやては小さく肩を落とした。
 つい先刻、恒例となっているなのはとフェイトとの夜間合同練習で、はやてはなのはに全戦全敗してしまったのだ。
 敗因はすでにわかっている。

「やっぱり空中戦ではあの二人に勝ち目はないんかな」

 ベレー帽を少し傾け、はやては呟いた。
 なのはもフェイトも空中戦は異常に強い。現状でも空戦AAAランクは固いだろう。逆に自分はAランクか、それともBランクか。
 単純なランク付けそのものに一喜一憂する必要はないけれど、負けっぱなしは面白くない。
 もちろん後方支援が主な役割の広域型の自分が、クロスレンジやミドルレンジでの勝負にこだわり過ぎるのは却って有害だという事もわかっている。
 ――が、ソレはソレとして。
 戦う、戦わないはその時の判断だとしても、戦えないというのは少々問題があるように思える。
 戦えないならせめて逃げ切らねばならない。
 自分の得意とする長距離・広域魔法を使える距離を稼げる方法を考える事は、これは決して無駄ではないだろう。
 実際、コチラが長距離戦を望んだとしても、現場では何が起こるかわかったものではないのだから。
 それに―――。

「あの子は接近戦でも強かったそうやし……」

 ギュッとはやては拳を結んだ。
 あの子――リインフォースは、接近戦でもなのはを圧倒したという。なのは本人の話や管理局の記録映像からも、それが真実だと窺い知れる。
 本当に、強い子だったのだ。
 そんな彼女の魔導の力を受け継いでいるはずの自分。
 しかし、幸か不幸か自分にはその才能が全くない。
 哀しいくらいに、てんでダメ。
 ベルカ式は近接攻撃を重視した体系である――という基本概念を、このままでは自分一人で覆してしまうだろう。
 ならばと思って居残りで逃げ切る機動を色々と試しているのだが、こちらもなかなか上手くいかなくて。

「……ふぅ」

 思わず嘆息を散らしてしまう。
 はやては腕のシュベルトクロイツをペンダントに戻した。
 息を整え、ゆっくりと。
 雲の下へと降下する。
 眼下に見下ろす街の明りは、静か。
 微かに潮を含んだ風を起こす海辺は墨汁で満たしたように一面が黒で埋め尽くされ、明りを灯した船の姿もまばらにしか見当たらない。

 本当に――本当に静かな夜。

 つい数時間前の街の賑わいが嘘のように。
 頬に当る風は変わらず冷たく、独り佇むと慣れたはずの夜の気配にふとした孤独が胸の奥に入り込む。
 深々と降り積もる静寂が、痛い。
 乾いた風は頬と心を枯れさせ、騎士甲冑の断熱フィールドをオフにすれば途端に肌を切る冷気に身を震わせるだろう。
 だけども綺麗だと、はやては思った。
 凍て付く夜。
 薄雲の切れ間から煌々と輝く真円の月。
 そこにかしづく者の姿はなく、夜天の王は騎士甲冑を纏ったまま、独り。
 こんな静かな夜を得た夜天の王は、果たして歴代の中で何人いたのだろう。
 戦に明け暮れ、破壊に狂い、忠臣ばかりか血縁でさえ刺客と恐れた王の、なんと多かった事か。
 それが闇の書の歴史。歴代の王の末路。
 自らの周りを幾重にも城壁で覆い、超高圧の呪殻結界を張り巡らし、武装した傀儡兵で囲ませた王の孤独と今の自分の孤独とでは根本的に質が違う。
 
 何故、歴代の王は力のみを求めたのだろう。
 何故、王に仕えた宮廷魔術師たちは闇の書のプログラムに悪意のある改変を加えていったのだろう。
 
 旅をする魔導書。
 自律機能を持ったレアスキルの魔法大百科。
 ただソレだけの存在であった彼女を、どうして血に染める必要があったのだろうか。
 答えははやてにはわからない。
 多分、一生わかる事はないだろう。
 それが人の業なのだとクロノ執務官は言った。どうしようもない現実。理不尽。
 力なき故に襲い掛かる自分への不幸、身内への不幸、貧困、暴力。
 そして――死。

 そういった諸々を打ち消す術として、痛みを知る自分だからこそ世界から不幸を取り除く王たらんとして。
 禁断の力を得ようとする無自覚の――もしくは善意から生じた悪意。
 世界は単純ではない分、誰もが良かれと思って動き出す。
 こんなはずではなかったと、後悔ばかりを積み重ねながら前へと進む。
 そして『闇の書事件』の表と裏の真相に辿り付いた執務官は、言葉の最後を「だけど――」と結んだ。
 だから、ではなく、だけど――と。
 その次に紡ぐ言葉は、はやて自身が考え、見つけ出せという事なのだろう。
 自らの意思で管理局への入局を決めた以上、それは常に問い続けなければならない事だから。
 自分と守護騎士たちとの贖罪の道は、まだ始まったばかり。

『だから、仕方なかった―――』

 などという思考を停止させた結論だけは、安易に認めるわけにはいかないのだ。

「……でも」

 言葉が、散った。
 決意で結んだ眼差しが不安定に流れる。
 眼下に広がる海と山とに挟まれた海鳴の街並み。
 夜を削る幾つもの光。
 自分が育ち、過ごした土地。沢山の笑顔があって、知り合いや友達が住んでいて、善い所も悪い所も知っている街。
 故郷と呼ぶには大袈裟だけれども、思い出が詰った唯一の場所。
 きっと護るべき縮図がそこに在る。
 それなのに流れた眼差しはその向こう。
 頼りない外灯に浮かんだ別れの丘をじっと見つめていた。
 誰もいない事はわかっていた。
 わかっていながら求めてしまう自分に嘆息がこぼれた。

「……って、あかん。これは自分で思っているより、もっと重症なのかもや」

 自分に言い聞かせるように、ことさら声に出す。
 全ては今月に入ってからの事だ。
 今年のクリスマスを意識して以来、胸の箱に押し込んでいたどうにもならない想いが溢れ出し、本人の意思とは無関係に眼差しの行き先をあの丘へと向けてしまう。

「………」

 我ながら、本当に。
 本当に、重症なのだと。
 それを客観的に認識できる程度には冷静で、そんな自分に自然に笑みがこぼれてくる。

「よし。そろそろ帰ろ」

 帰ってあったかお風呂にしよう。今日の入浴剤は何にしようか。
 シャマルはお肌スベスベ系が大好きだけど、シグナムも最近はささやかながら自らの好みを主張するようになった。
 とてもいい傾向だと思う。
 どうという事のない入浴剤を巡って小さな火花を静かに散らすシャマルとシグナムに、そんな二人を呆れた様子で見やるヴィータ。
 こんな些細な日常の一コマがどれほど愛おしく、どれほど貴重なものであるか。
 ちなみにはやて自身は入浴剤は香りで選んでいる。
 まだ十代に入ったばかり小学生の肌は、年長組の二人に対しても抜群のスベスベ感と瑞々しさを誇っているから、付与効果よりも実感を重視しているのだが。
 踵を返したはやては、しかしその足をピタリと止めた。

「……?」

 流れる風。
 微かに耳に届く潮騒と、街の喧騒――その中に。

「声……?」

 どこか遠くから、或いは直ぐ間近から。
 あやふやな、曖昧な、消え入りそうな、だけども夜を抜いて確かに伝わってくる誰かの――これは、歌。
 街からではなかった。
 街の中で溢れている歌ではなく、ましてや電子化された歌とは明らかに違う肉声だった。
 だが、だとしたら何処で? この高度に肉声が届くだけでも驚きなのだが、はやての足元には黒い絨毯のような山の斜面しか見当たらないのだ。
 だけども、歌声は確かにそこから響く。
 闇を圧す澄んだ歌声が。
 願いをそっと夜天へと届けるように。

「あっ……」

 足元の一角――闇に沈んだ山肌に、ポツリと浮かぶ灯りが眼の端に見えた。
 目を凝らせば灯りの他に、蒼い月明りに大きな鳥居の影が浮かび上がっているではないか。

「海鳴神社……?」

 思い当たる場所は他にはなかった。
 この辺りではワリと大きな神社で、大晦日ともなれば年越しの参拝客で賑わうらしい。
 らしいというのは、未だに普段は車椅子生活のはやてにとって、そこは海鳴の中でも最も縁遠い場所だったからだ。
 考えてみれば物心がついてから、一度も参拝に訪れた事はないだろう。
 その海鳴神社から歌が聞こえる。
 それも聞き間違えでないのなら、その歌は―――。

「……ちょ、ちょっとくらいなら平気やんな?」

 誰にともなく呟き、独りで頷く。
 夜の神社。
 一度も訪れた事のない場所。
 そこから響く、透き通るようなソプラノボイス。
 知っている声。
 自分だけではなく、世界中の色々な人が聴いている声。
 そんなはずがないと常識的には思うのだが―――。
 だとしたら、この声の正体はなんなのだろう?
 好奇心をうずかせるには充分すぎる材料だった。神社に向かって、はやてはゆっくりと高度を下げる。
 もちろん境内の真ん中に降り立つわけにはいかないので、まずは灯りから少し離れた鎮守の森の一角に翼を落とした。

「うわっ……」

 予想を遥かに超える濃密な闇に包まれた夜の森に、はやては思わず声をもらした。
 それでもゆっくりと境内に向かって歩き始める。
 月明りの届かない森は本当に真っ暗で、冬の冷気は無機質な静寂で辺りを区切り、まるである種の結界のようだった。

「確か、こっちやったと思うけど……」

 歌声はもう絶えていたが、降りてくる時に確認した方向に向かって斜面を下る事、少し。
 ようやく開けた境内と社殿の明かりが目に入り、はやては安堵に胸を撫で下ろした。
 その時だった。

「あの〜〜〜」
「うひゃあ!?」

 突然の声にはやては素っ頓狂な声を跳ね上げた。
 思わず振り返ろうとした足が、偶然、張り出した木の根に引っ掛かってしまったのは、ある意味で仕方のない事だろう。

「むきゅう――」

 顔から目の前の木に突っ込む。
 幸いにして騎士甲冑のフィールドが、物理的なダメージを吸収してくれたものの、衝撃そのものがキャンセルされるワケではない。
 そのままズルズルとはやては地面に崩れた。
 しかも―――。

「だ、大丈夫です――きゃ!?」

 駆け寄ろうとして、同じようにバタリと転倒してしまった少女の方は、事故というよりドジと言うべきだろう。

「わわっ、そっちこそ大丈夫ですか?」

 今度ははやてが駆け寄った。
 巫女の姿をした、十六、七歳くらいに見える少女。

「だ、大丈夫です。慣れていますから」

 赤くなった鼻を押さえ、巫女の少女は困ったように笑みを浮かべた。
 本当に転ぶのに慣れているのか、派手に転倒したわりにはどこかを怪我した様子もない。

「よいしょ、っと」

 立ち上がった少女は白い衣についた埃を軽く叩き、はやての瞳を覗き込むと、改めてニコリ。

「えっと、こんばんは……でいいのかな?」
「あ、はい。こんばんは……」

 余りにも自然な――まるで顔見知りと街中で出会ったかのような少女の声に、はやては困惑しつつも言葉を返した。
 普通はもっと驚いたり不審に思ったりしないだろうか。
 はやての疑問は、しかし次の言葉で氷解した。

「女の子さんは、ひょっとしてなのはちゃんのお友達……だったりするのかな?」
「なのはちゃんのこと知ってるんですか!?」
「ああ、やっぱり」

 ひとりで納得したように少女は微笑んだ。

「空を飛んでいる女の子がいたから、ひょっとしてって思ったから。幽霊にしてはちょっと変だし、妖怪ってわけでもなさそうだったから」
「は、はぁ……」

 まるで幽霊や妖怪を識っているかのような口振り。

「あ、自己紹介が遅れちゃったね。わたしは神咲那美っていいます。なのはちゃんのお姉さんのお友達なんです」
「美由希さんの?」
「あ、もちろんなのはちゃんともお友達なんだよ?」

 巫女の少女――那美は、嬉しそうに小さな手のひらを胸の前でちょんと合わせた。
 不思議な感じの少女だった。
 年上のはずなのに、まるで子供のようにやわらかな笑顔。
 初対面にも関わらず、疑うことや警戒することを忘れてしまう安心感と、奇妙な心地良さ。
 不意に踏み込まれても、避けずにそれを赦してしまいそうな無防備な瞳。
 どこかシャマルに似ているのかもしれない。
 優しそうで、でもちょっとドジっぽい雰囲気が。

「あの……」

 声を出した、丁度その時。

「那美〜。誰かいたの〜?」

 駆け寄ってくる軽い足音と、言葉。
 独特なイントネーションを少し含んだ流暢な日本語に、はやての胸がトクンと高鳴った。
 あり得ないはずだと、そうタカをくくっていた。
 だから目の前の現実に鼓動が狂ったよなリズムを踏んで、はやては口をパクパクと動かす事しか出来なかった。
 鎮守の森を差す銀の斜光。
 ザワリと揺れた夜気に踊る長いブルネットの髪。
 CDのジャケットで、DVDの映像で、街頭に貼り付けられたポスターで、その顔立ちを見た事だけなら何度もあった。
 けれども本物を、ナマで見たのはコレが初めてで―――。

「あ、あの……?」

 数日後にクリスマスコンサートを控えた、世界を翔ける若き歌うたい。
 クリステラ・ソングスクールの創設者『世紀の歌姫』ことティオレ・クリステラの一人娘。

「え、えっと、もしかしてフィ…フィア………」

 まだ咽喉が麻痺したように上手く動かなかった。
 思考が追いついてくれないのだ。
 だけど目の前の青い瞳は、はやてがパニックから回復するのを待つかのように穏やかに微笑んでいる。
 その微笑こそが『光の歌姫』の二つ名の象徴。

「フィアッセ・クリステラさん!?」

 ようやく滑り出た声にフィアッセは嬉しそうに頷いた。

「うん。よろしくね」





 奇縁というのなら、まさにこれを言うのだろう。
 自分が奇妙な星の元に生まれた事を、はやてはそれなりに自覚しているつもりだった。
 魔導のことや守護騎士のこと。管理局の存在に――闇の書の真実。
 去年の誕生日から随分と驚かされっ放しで、もうこれ以上驚く事はないだろうと考えていたのだが、ある意味でコレは極めつけだろう。
 しかし、それにしても―――。

「なに? どうしたのかなはやて?」
「ああ、いえ! と、言いますか、なのはちゃんの知り合いの中に、まさかフィアッセさんが居るやなんて……」
「ん〜。知り合いっていうよりも『家族』って感覚かな。だからそんなに驚く事でもないと思うよ?」
「いや、家族って感覚の方がむしろ驚きなんですけど……」

 こともなげに言うフィアッセに、乾いた汗がタラリと。
 知人の知人に有名人が居る。
 それ自体は珍しい事ではあっても、あり得ない事ではないのだろうが、彼女の名前は流石にグローバル過ぎる。

「でも、そっか。アナタがはやてちゃんだったんだね。なのはから手紙で教えてもらったんだよ。
新しいお友達ができて、とってもステキな魔法使いさんなんだよ、って」
「す、すてきやなんて、そないな事は決して―――」

 向けられた讃辞に慌てて手を振った。
 社交辞令とはわかっていても、軽く受け流すには相手が反則的に悪すぎる。
 首まで赤くなるのを自覚しながら、はやてはおずおずとフィアッセに語りかけた。

「と、ところでクリステラさんは―――」
「フィアッセ」

 紡いだ言葉を塞ぐように、長い指が唇を押さえる。

「わたしのことは、フィアッセ。みんなはわたしの事をそう呼んでるよ?」

 それは親しい間柄の人たちとの話ではないのだろうか。
 はやては困った眼差しを那美へと向けたが、那美は苦笑を浮かべるだけだった。
 言っても無駄だと、多分そういうサインなのだろう。

「じゃあ、えっと――フィアッセさん」
「はい。なにかなはやて?」
「フィアッセさんは、こんな時間にどうしてここに? クリスマスコンサートの準備とかで忙しいんと違いますか?」

 素朴な疑問を訊ねてみる。

「うん。だけど、今はプライベート。せっかく海鳴に来ているんだもん。懐かしいみんなと一緒に居たいしね」
「実はね、山の方で恭也さんと美由希さんが夜の鍛錬をしているの。知っているかな、恭也さんたちの剣術の事は?」
「はい。なのはちゃんから聞いています」

 小太刀二刀御神流。
 本当の名前はもっと長いらしく、普段は単に「御神流」と呼んでいる古流剣術。
 純粋に人を壊す為に研かれたその技は、シグナムをして興味に尽きないと言わしめるほどの。

「で、わたしも久しぶりだから二人の練習を見学していたんだけど、流石に寒くてコッチに非難してきたの」

 フィアッセはペロリと舌を出した。

「恭也さん、呆れてましたよ。コンサート前の歌姫が風邪を引くような事をするのは感心できない、って」
「だって、見たかったんだもん」

 そして窘められると頬をぷぅっと膨らます。
 これが、この人の本来の姿なのだろうか?
 映像の中のフィアッセ・クリステラは抜群の歌声も魅力的ながら、若くしてソングスクールの校長を勤める大人びた才女の印象を感じたものだったが―――。
 目の前のフィアッセはソレよりも随分と子供っぽくて、固くなっていた心がふと軽くなる。

「緊張は、とけた?」

 差し向けられた青い瞳にも、どうにか平気。

「はい。おかげさまで随分と」

 応える声は、いつも通りの自分の声だった。
 目の前にいるのは世界的に著名な人だけど、笑顔の可愛いなのはのお姉さん的な存在なのだ。
 美人だけれども怖い感じが少しもなくて、随分と年上だけれども親しみやすくて。
 それ以上でも以下でもない。

「ところではやての方こそ、こんな時間になにしてたの? なのはたちは一緒じゃないみたいだけど?」
「あ、なのはちゃんたちなら先に帰りました。わたしはちょっと居残って、今日の練習の復習をしていたんですけど、
 そしたらなんか知っている歌が聴こえたもんですから」
「やだ!? わたしの声ってそんなに響いていたの? そんなに大きな声で歌ったつもりはなかったんだけど」

 フィアッセは苦笑を浮かべたが、それは仕方ないだろう。街の近くならともかく、ここには彼女の声を掻き消すような騒音はない。
 澄んだ冬の夜に、声に芯のあるフィアッセの歌声が遠くにまで響くのはむしろ当然なのだから。

「そやけどホンマにビックリでした。聞き覚えのある歌声が聴こえてきて、まさかなぁー思うて降りてみたら、まさかが本当だったんですから」
「そうなんだ。はやてはわたしの歌、知っててくれたんだ」
「もちろんです。きっかけはなのはちゃんが貸してくれたコンサートのDVDだったんですけど。今ではCDと合わせて全部きっちり揃えてます」
「Oh! サンキューだよはやて。じゃあ、今度のクリスマスコンサートも来てくれるのかな?」
「あ、えっと……」

 はやては言いよどんだ。
 実はなのはから誘われてはいたのだ。コンサートのチケットを貰ったから皆で行かないか、と。
 あの時はプレミアムチケットをどうやってそんなに沢山手に入れたんだろうと不思議に思っていたが、なるほどフィアッセ本人から貰ったのだろう。
 だけど、はやては静かに頭を横に振った。
 あの時も、そして、今も。

「どうして? あ、もしかして先約があった?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」

 困惑と、チクリと走った胸の痛みと。
 足元に落した視線の先に、窪んだような、闇。
 なんと言えばいいのだろう。
 クリスマスコンサートという特別なステージで、沢山の人の期待を一身に集めたこの歌姫の笑顔を、ほんの少しでも翳らせてしまう事が怖かったのかもしれない。
 本当の事を伝えるはとても簡単で、だからこそ難しいから。

「申しわけないですけど、その日は家族と一緒にクリスマスを過ごそうと思います」

 だから、こんな言葉を並べるのが精一杯。
 それ以上は言えなから、膝の上の拳をキュッと結ぶ。
 ここから先は何を問われても誤魔化そう。上手く誤魔化し切れないかもしれないけれど、それでも誤魔化そう。
 それに家族とクリスマスを過ごすという言葉、それ自体には微塵の嘘も含まれてはいないのだから。
 そう。クリスマスを過ごすのだ。
 祝うのではく、ただ粛々と。
 その日は命日だから。
 想いを残し、未来を託して自らのページを閉じる道を選んでしまった、紅い瞳をした少女の命日―――。
 だから静かに過ごすのだと、そう決めたはやての視界にフィアッセの長い腕が不意に伸びた。
 次の瞬間、はやてのほっぺたは左右に伸びた。

「はやて、悪い子だ」
「ふぃ、ふぃあっふぇさん、なにひぉ?」

 突然の事にはやては目を丸くした。

「なにを、じゃないよ、はやて。はやては年上のお姉さんの事を甘く見ているでしょ? 目を見ればわかるんだから――エイエイエイ!」
「いひゃいいひゃいいひゃい〜〜〜!?」
「あああ、フィアッセさん!? そんなに引っ張ったらはやてちゃんのほっぺたが伸びちゃいますよ!?」

 慌てた那美が助けてくれなければ、本当にほっぺたが伸びてしまったかもしれない。

「だって、はやてが本当の事を話してくれないんだもん」

 いや、だもんではなくて。

「でもね、はやて。わたしは本気で少し怒っているよ?」

 ヒリヒリするほっぺたを押さえていると、青い瞳が正面から覗きんできた。
 夜明けの空にも似た澄んだ青。明るい金色のかかったブルネットの前髪が、微かに揺れる。
 同じ女性なのに、どうしてこうも違うのだろう。
 ふとそんな場違いな疑問が思考を過ぎった。
 整える程度に薄く化粧を施すだけで、こんなにも美しくなれる女性をはやては他に知らない。
 歳の差は当然としても、自分の十年後が目の前の女性と同じになれるとは、はやてには到底思えないのだ。
 ただ、冴えた夜気に散る息だけが、同じように、白い。

「はやてくらいの女の子が、クリスマスという言葉に心を暗くするなんて良くない事だよ。わたしはね、そんな淋しそうな目をした女の子には笑って欲しいんだよ」

 そう語る優しい瞳に嘘はなかった。
 取り繕った優しさとは根本的に違う、重みと深み。

「ねぇ、はやてちゃん。わたしたちはなんの力にもなれないかもしれないけど、話せば少しは楽になるかもしれないよ?」

 そして那美まで同じように。
 優しい眼差しを向けられると困ってしまう。
 真実を話してもいいのではないかと思ってしまう。
 誰にかに優しくされると、嬉しさと忸怩たる思いが胸の深い部分で交差して、どうすればいいのかわからなくなる。
 だけど―――。

「護ってくれてた人が、居たんです……」

 零れた言葉が、小さく夜気をふるわせた。
 凛と、澄んだ音色が夜に響く。
 胸のペンダントをギュッと握る。
 一度は友達の胸に縋って声を枯らし、涙を散らした。
 それを最後に強くなろうと、そう思ってきたのだけれど、あれ以来誰にも言えなかった言葉が、ポツリと。
 胸に秘め続けるにはフィアッセの微笑みは、ふわりと風のように柔らかすぎて。
 硬く結んだ心のリボンを紐解くように―――。

「ツライことばかりで、いつも泣いていて。わりと駄々っ子で後ろ向きで、そやけど本当は強くて優しい子やったんです。
 それやのにやっと掴んだ幸せになれるチャンスを捨ててまで、最後までわたしのために尽くしてくれて……」

 一年前のクリスマス―――。
 護ってあげたいと思っていたのに、結局のところ護られていたのは自分。
 無力で小さな自分のために、彼女は最後に微笑みながら消えてしまった。

「こだわるのはよくない事やって、それは自分でもわかってるんです。その事で周りがどれだけ心配してくれているかも。そやけど……そやけど………」

 失ってしまったものが大きすぎるのだ。
 消えてゆく彼女を止める事のできなかった悔恨と、叶える事のできなかった強い願い。
 握った手のひらに食い込むペンダントの痛みが、果たせなかった約束を苛むように。
 誕生日をクリスマスに持つ人は、人より一つ損をしているのかもしれない。
 だけども聖夜を祝う事はできるだろう。

 でも―――。

 大切な人をクリスマスに失くした人は、一体どんな顔をして聖夜を迎えればいいのだろう?
 はやてにはわからない。
 愛しい人たちと過ごす聖夜を笑顔で迎えたいとは思う。
 けれども胸に食い込む漆黒の夜空の、この澄んだ寒さに身を包まれてしまう時、不意に後ろめたさに心が軋む。

「本当に、わたしで良かったのかな……って」

 白い吐息が、上擦った声と共に胸に散った。
 吐露した言葉に滲む涙は、哀しさと、そして、悔しさ。
 早足で訪れた今年の冬。
 夜を彩る巨大なツリーと人々の笑顔。
 その輪の中に飛び込むには、まだつらすぎた。
 自分が幸せであればあるほどに。

「そっか……」

 はやての話を聞き終えたフィアッセの言葉は、一言だった。
 慰めの言葉ではなく、否定と同情の言葉でもなく。

「はやては大事な人をなくしたから、クリスマスにどんな顔をすればいいのかわからなくなってしまったんだね」
「……情けない事やと思います」
「そんなことはない。はやてはスゴイよ。だけどやっぱり、はやては笑顔でいた方がいいとわたしは思う……。
 なんて、言われなくてもわかっているかな」
「理屈では、そうなんやろうなって事くらいは……」

 自らを消滅させてまで託された、この身に宿った魔導の力。
 とっくに終えるはずだったこの命。
 そして――残してくれた愛しき守護騎士たち。
 泣いて、心を閉ざして、無為に日々を過ごす事など、それこそ彼女の想いに対する冒涜ではないかと――理屈では。

「だったらやっぱりはやてはエライよ。わたしなんて、もう笑う事なんてできないんだって、そう思い込んでいたから」

 苦笑いするようなフィアッセの面持ちに、はやてはパチクリと瞳を瞬かせた。

「ずっと昔――わたしがまだ、はやてと同じ歳くらいの時だったかな。わたしは自分が嫌いだったの。
 周りの人を不幸にばっかりして、それはわたしの黒い死の呪いのせいだって、ずっとずっとそう思いこんでいた」
「フィアッセさんが……?」
「うん。特に大好きな――とっても大好きだった人に大きな怪我をさせてしまった時は、本当につらかったかな。
 ただただ申しわけがなくて、ずっと塞ぎこんでしまって、歌を唄う事もできなくなったくらいで」

 遠く懐かしむように、フィアッセは目を細めた。
 淡く光る月の光を浴びたその姿の、一体どこが黒い死の呪いというイメージと結びつくのだろう。
『光りの歌姫』の二つ名を持つ彼女の姿は、女神のように輝いているというのに。
 白く輝く翼を持った、美しき女神―――。

「だけどね、そんなわたしを生きる勇気をくれた人がいた」

 フィアッセは微笑を向けた。

「臆病で泣き虫だったわたしに、身体を張って何ができるのかを教えてくれた友達が居た。わたしには――わたしたちには歌があるって。
 楽しい事や嬉しい事ばかりじゃなくて、哀しい事やツライ事も、今、感じているその気持ちの全てを遠い空まで届けられる。
 そんな歌うたいになればいいって」

 それがきっと、彼女の歌の源泉。
 世界に声を届ける歌姫の、意固地なまでの尊い誓い。

「やっぱりはやてにはコンサートに来て欲しいな。はやての今のその想いを、わたしは歌にして夜天(そら)に届けたいもん」
「でも―――」
「俯いたらダメだよ、はやて」

 俯きかけた眼差しを、伸ばされた白い手が押し止めた。
 はやては顔を持ち上げた。
 笑顔―――。
 夜を優しく照らす月のような笑顔が、そこには在った。
 哀れみも、同情も。
 怯みも恐れも蔑みもなく。
 自らの行いを正しく信じた、ただ真っ直ぐな眼差しが。

「俯いてしまったら、せっかくの星空が見られなくなるよ?」

 と、フィアッセははやてから少し離れて。
 夜空を仰ぎ、ブルネットの髪が夜風に踊る。
 ゆっくりと長い腕を持ち上げて、深く、静かに。
 胸に吸い込んだ夜気を透明な旋律に震わせて、歌姫の奏でる艶やかな声が、はやての耳をそっと揺らした。


   長い間悩んだ 寂しさと 人の心
   短い詩を君に送るよ 胸に書いた言葉を


「フィアッセさん……?」

 唐突に夜を薙いだその歌に、はやては目を丸くした。
 それははやても良く知っている歌だった。
 フィアッセ・クリステラのファンであるなら誰でも知っているであろう、その歌。
 今や伝説として語り継がれる、海鳴コンサートでのアンコール曲として唄われた名曲。



     『See You 〜小さな永遠〜』



「いい歌、ですよね」

 隣りで那美が、そっと呟いた。
 冴えた夜風に薄い栗色の髪をそっと流し、穏やかな夜の調べに耳を傾けながら、不意に微笑む。

「わたしもフィアッセさんの歌、大好きなんですよ?」

 言って、巫女服の少女は静かに瞳を閉ざした。
 まるでそうする事が作法のように。
 

   君が語りかけた 優しさに 気付かないでいたころ
   もう一度戻れるなら 
   抱きしめて 笑ってあげてたい

 
「……はい」

 はやては素直に頷いた。
 心に染みる。
 歌詞が。
 声が。
 何よりも――歌い手の心が。
 何故だろうとふと疑問を浮かべ、直ぐに見つけた答えにはやては苦笑した。
 彼女が奏でているこの歌は、夜気の間を縫って押し寄せるこのメロディーは、耳を震わせているのでなく心を震わせているのだ。
 空気から伝わってくるのではなく、魂から伝わってくるからなのだ――と。
 これが光りの歌姫の、歌。
 世界中の人々を魅了し、唸らせる、歌うたいの、歌。

「せやけど、これって―――」

 はやては愕然とした。
 この歌が、今、ここで唄われているその意味に。
 

   だから広げた手を青い空に振りながら
   そっと涙を拭っている
   そして巡り逢えた君との日々
   いつまでもずっと 忘れないからと 
   笑顔で見送る


 フィアッセの薄く細められた眼差しがはやてへと向いた。
 語りかけるように。
 誘うように。
 そう。この歌は一人の歌姫が、一人のファンへと気紛れでサービスしているのではない。
 フィアッセ・クリステラが、八神はやてへ―――。
 触れた心に自らの想いを歌詞に乗せ、はやて個人のために歌ってくれているのだ。
 その歌が心に染みないわけがない。
 身体が震えないわけが――ない。

「歌って、本当にすごいんですよね。楽しい歌。哀しい歌。恋の歌。お別れの歌。祈りの歌。鎮魂の歌―――。
 世界中の色々な人が色々な想いをこめて、今もどこかで唄っていて……。
 時には勇気をくれて、時には希望をくれて、安らぎをくれて、涙を流したりするんですよね」

 歌は、それ自体は決して特別なものではない。
 誰にだって唄えるし、何処でだって唄えるだろう。
 けれども、聴く者の全ての心に共感を生む歌詞と声は、それほど多くは存在しないものだから。
 真の歌うたいとは、そういう存在をさすのだろう。
 理屈ではなく、はやてはそう思う。

「……はやてちゃんが、亡くなってしまった人に対して抱いている想いは、わたしは間違ってないと思います」
「那美さん……?」

 歌を遮らないように静かな声で、那美は続けた。

「亡くなった人の魂とって、一番哀しいのは忘れられてしまうこと。
 けれどもその次に哀しいのは、自分の死が、自分の大好きだった人をいつまでも縛り付けてしまうこと」

 それはまるで、今までに何度もそんな魂を見てきたかのような不思議な言葉だった。
 否、彼女は実際に見てきたのではないのだろうか?
 そう思わせる何かを、はやては那美に中に感じ取った。

「難しいんです。皆悩んでいるんです。それが大切の人の死であればあるほど……。
 だけどずっと残念がっていたら、死んでしまった人も心配になって、困ってしまうから」
「そう……ですよね」

 頷くと、那美ははやての背中にそっと手を触れた。

「はやてちゃんは、その人から本当に大切に想われていたんだって、わたしにはわかります。
 その胸のペンダントには、不思議な力と強い想いのカケラが感じられますから」
「このペンダントに―――」

 思わず甲高く声を響かせ、はやては慌てて口を塞いだ。

「はい。きっと自分の意思や願いを、そのペンダントに託したんですね。
 わたしには魔法の事はよくわからないけど、それが特別なペンダントだって事くらいはわかりますから」

 ギュッと、剣十字のペンダントをはやては握った。
 そうであったら良いなと、ずっとどこかで思っていた。
 そうであって欲しいなと、ずっと心で願っていた。
 例えそれが、どんなに自分勝手な思いだとしても。

「リインフォース………っ」
「だから、はやてちゃんが自分に責任を感じる必要、ないとわたしは思います。そんな事を誰も望んでいないから。
 それでも不安に思うなら、謝りたい事や届けたい事があるのなら、どうすればいいかフィアッセさんが教えてくれてますよ?」

 ニコリ、と那美は微笑んで。
 はやての背中を強く押した。

「へ――わっ!?」

 境内に押し出され、はやては驚きたたらを踏んだ。
 そこへ正面から、微笑みながら手を差し伸ばすフィアッセの指が視界に入り、流れのままに掴み取る。

「あっ……」


   いくつかの悲しみと 優しさと 人の涙
   くり返した思い出の中 皆生きてたんだね


 そう。生きてきた。生きている。過去から、今を。
 悲しい事を乗り越えてきた。
 優しい騎士たちに巡り合い、共に。


   君が言いかけてた あの時の 
   言葉がわからなくて
   もう一度戻れるなら 抱きしめて 
   笑ってあげたい


 ああ、そうなのだろう。
 抱きしめてあげたかった。
 他の騎士たちにそうしてあげているように。
 夢の中ではなく、現実の世界で。
 ギュッと、精一杯。例え満足に動く事すら叶わないこの身体であろうとも、あの長く綺麗な銀色の髪と一緒に、細い背中を抱きしめたかったのだ。

 その切なさが―――。
 伝えたかった、その大切な想いが―――。

「「きっと……」」

 溢れた声が調べとなって、夜天を渡る歌となる。


   さよならから始まる日は
   そっと優しさに 包まれておとずれる


 さようならから始まった魔導師としての自分の道。
 まるで其れを謡うかのように巡らされた歌詞に、思うがままに喉と魂を震わせて――唄う。
 必要なのは技術ではない。
 この想い。この感情。
 必要な技術は目の前の歌姫が声に乗せてくれるから。
 夜天の星よりもずっと遠いその場所まで、沢山の人の夢や願いと一緒にこの歌声を届けてくれると。
 今ならそう信じられるから―――。

 はやては――唄う。



   君は振り向かず歩き始める
   遠くない未来 きっとまた逢える
   その後ろ姿に


        広げた手を青い空に振りながら
        そっと涙を拭っている
        そして巡り逢えた君との日々


             いつまでもずっと……
   

                  いつまでもずっと……










     忘れず行くから―――












「……………」

 唄い終われば、静寂。
 透き通った玻璃のような静けさに、夜が還る。
 月の斜光と凍て付くような漆黒の風。僅かに硬く、榊の枝を掻き鳴らす冴えた夜風が、余韻に火照ったはやての頬を撫でるように吹き抜けた。

「あっ……」

 その澄んだ寒さに、ふと我に返る。
 途端にはやては赤くなり、ついで蒼白になった。

 自分は今、何をした?

 唄った? 
 誰と? 
 フィアッセ・クリステラと?
 光の歌姫と、自分が、声を合わせて?????

「はやて。歌、上手だったよ」

 ニコリとした微笑に、しかしはやては慌てて首を横に振る。

「そっ、そないなことは、決して……っ!」
「そうかな? わたしの学校で歌の勉強、してみる?」

 冷や汗が噴き出し、心臓がドクンドクンと。
 これが自分ではなくフェイトだったらフィアッセの言葉にも真実味が増すのだろうけど、コチラはこの方面に関する限りは普通に小学四年生。
 他意のないフィアッセの賛辞は、素直に喜ぶには余りにも心臓に悪すぎる。

「うん。とっても上手だったよ、はやてちゃん。フィアッセさんのお墨付きなら歌手の勉強をしてみたら?」
「な、那美さんまで!?」

 わかって言っているのか本気で言っているのか。ほんわか微笑みながら拍手を送ってくる那美の姿を見ていると、一抹の不安に冷や汗がタラリ。
 しかも、拍手は那美からだけではなかった。
 後ろからも小さな拍手が潮騒が弾けるように、パチパチと響く複数の拍手がはやてをより一層驚かせた。

「な、なんで―――」

 これ以上ないくらいに。
 大きく見開いた瞳の先に佇む影が、四つ。

「よい歌でしたよ、主はやて」

 切れ長の目じりを優しく微笑ませた、落ち着いた声。

「シ、シグナム!? それにみんなも!?」
「ああ、もう。はやてちゃん、どうして教えてくれなかったんですかぁ!? はやてちゃんの歌、わたしもちゃんと聴きたかったのにぃ〜〜〜。
 クラールヴィントもクラールヴィントよ。どうしてアナタには録画も録音もできないの!」
「無茶言うなってぇーの、シャマル」

 涙目になって自分のデバイスを叱責するシャマルと、横から冷ややかな眼差しを送るヴィータ。

「………」

 そして最後の一人――いや、一匹。
 蒼き狼は大きな身体を揺すり、いつものように無言。
 ただ静かな眼差しは心なしか安堵の面影を宿し、大きな尻尾を一度だけフサリ。漂う冷気を払うように動かした。

「みんな……」

 どうしてここに、とは訊ねなかった。
 訊ねるまでもない事だから。
 深く冷えた夜の杜。
 自分が今、ココに居る。
 それが全てと。

「………」

 笑みが浮んだ。
 僅かに重ねた歌と声。ただソレだけの事で、いつの間にか胸の曇りが晴れていた。心は羽が生えたように軽く、吹き付ける風は冷たいけれども心地よく。
 騎士たちの出迎えを、素直に愛おしく思えるほどに。

「お迎え、ごくろうさんや」
「あの、はやて……ちゃん?」
「ん? シャマル、どないした?」
「いえ、どなしたって言われましても、その……」

 キョトンとするシャマルの表情が可笑しくて、悪いとは思いつつもはやては悪戯っぽい笑みをこぼした。

「良い表情です、主はやて。悩みは晴れましたか?」
「うん。フィアッセさんと那美さんのおかげで、なんやこうスッキリとした気分や」

 言って、はやては星が広がる空を仰いだ。
 抱え込むのではなく、そのままを伝えれば良かったのだ。
 胸に溜まったこの想いを、例え相手があの夜空よりもずっと遠くに離れていても、届かないなんて事はないのだから。

 それがきっと歌の魅力―――。
 そしてそれを紡ぎだす、歌うたいたちの魔法―――。

「フィアッセさん。今日はありがとうございました」

 はやてはフィアッセに向き直り、ペコリと頭を下げた。

「うんん。わたしも楽しかったから、おあいこだよ」
「そやけどきっと、わたしの方がフィアッセさんより楽しませてもらいましたから、わたし方が得したと思います」
「そんな事ないと思うけど……じゃあ、はやて。得した分、わたしからお願いを聞いてくれないかな?」
「はい。でも、それならわかってますよ」

 頷き、微笑を交し合った後、今度は皆に振り返り、

「みんな、この後のクリスマスの予定が決まったで」

 高らかに宣言するように、はやては言った。

「ふぇ? クリスマスの予定って、特に何もしないで、いつも通りに過ごすんじゃなかったの?」
「うん。そのつもりやったけど、それは白紙撤回や」

 キョトンとするヴィータにそのまま続ける。

「今年のクリスマスは、フィアッセさんのコンサートを皆で聞きに行く。それがきっと、一番ステキや」
「ほ、本当ですかぁ!?」

 途端にシャマルの瞳が輝いた。

「こら、シャマル! しかし、主はやて。我らはそれで構いませんが――よろしいのですか?」
「それにそれでよろしいんよ、シグナム。わたし、聴いてみたくなったんや。コンサートホールの真ん中で歌う、フィアッセさんの生の歌を」

 それがどんなに凄い事なのか、今ならわかる。
 大勢の想いと期待を受け止めて、更に大勢の人々に想いと希望を伝えるその凄さ。
 その歌を間近で体感しておく事は、決して無駄ではない。
 そればかりかこれから往く道の、一つの大きなヒントになるかもしれないし、何より―――。

「その方が家で引きこもっているよりも絶対に楽しいし、何よりも幸せや。それはもう、絶対にや♪」

 むしろ、それ以上の理由は必要ないのかもしれない。
 皆が笑顔で過ごせる、そんな時間。
 彼女が一番望んでいたのはソレだったのだから。
 そしてフィアッセは、そんな時間をコンサートホールに訪れた人々に必ず与えてくれるだろう。
 遠い夜天の果てまで届けてくれる、優しさ力強さに溢れた真っ直ぐな歌で。

「さて、フィアッセさん。那美さん。お迎えが来てくれた事やし、わたしはそろそろお暇します」
「うん。じゃあ、クリスマスコンサートでね♪」
「あ、ここの神社はいつでも開いていますから、いつでも遊びに来て下さいね」
「はい」

 見送る二人に笑顔で応え、はやてはくるりと踵を返す。
 煌々と濡れたように光る月明かりの参道。
 家路へと流れる薄い雲をそっと導く月の光。
 慈愛に満ちたその輝きに、歌うように輝く星の調べ。
 ふと足元に視線を落せば寂しい気持ちは消えないけれど、だけどそれ想いだけに捕らわれる事は決してなく。

《良い歌でしたよ、我が主―――》

 はやては一度だけ振り返った。
 そこには誰も居なかったけれど、だけど―――。

「? どうかなさいましたか、主はやて?」
「なんでもないよ」

 はやては応え、再び家路に向かって歩みを進めた。




                                          《おわり》







作者コメント

こんにちは。天凪です。
今年もやってきました主はやての誕生日祭りですw
早いですね。もう4年目になるんですねー。
本編では4期相当のコミックが始まって、益々楽しみです。
早く八神家に出番を〜〜〜!

あ、ちなみに二作目のSSは冬コミ本のWEB初公開ということでw
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[甘いシロップ] よし、じゃあ僕が揉んで大きくしてあげ(ry)。シャマルさんになぜ同人誌の知識があるのかなんて些細なことですね、わかります。

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